日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 扇谷上杉氏の家宰・太田道灌を謀殺した男
日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~
そして、道灌が小口から出てきた瞬間―――。
兵庫が振り下ろした一太刀は、道灌を捉えました。
「当方(とうほう)滅亡!」
道灌は最期にそう叫んで絶命したと言います。
「当方滅亡」、つまり「私を失った当方(扇谷上杉氏)は近いうちに滅亡するであろう」ということを予言して亡くなったのです。
その後、道灌を謀殺した兵庫は道灌に替わって河越城に入り、江戸城には兵庫の父の豊後守(ぶんごのかみ)が入ったといいます。そして、道灌の子の資康(すけやす)は定正に追われ、太田家は一時没落することになりました。
一説によると、この道灌謀殺は兵庫などを中心とした新参の家臣たちの讒言によるものが大きかったと言われています。その結果、兵庫をはじめとした曽我氏は城を持つことになったという点では、謀殺ではあるものの家政主導権の勢力争いは、曽我氏らの新参勢力の勝利であると言えます。
しかし、この後、道灌の予言通りに事が進んでいきました。
扇谷上杉氏は主君筋の山内上杉氏との対立を深め、合戦を繰り広げて互いに疲弊していきました。
そこに小田原城を本拠とする北条家が侵攻を始め、扇谷上杉氏の当主の朝定(ともさだ)は「河越の戦い」(1546年)で北条軍の奇襲に遭って討死を遂げ、扇谷上杉氏は滅亡しました。
そして、山内上杉氏も「河越の戦い」で勢力を急速に失い、北条家によって関東を追われ、越後へと落ちていきました。
こうして道灌の予言通り、関東管領・上杉氏は滅亡していったのです。
兵庫が道灌を謀殺したと言われる糟屋館は、現在の産業能率大学の一帯だと言われています。目立った遺構はありませんが、館跡からほど近い「洞昌院(とうしょういん)」は道灌を荼毘に伏した寺院だと言われ、道灌の霊廟と墓が建立され、道灌に関する次のような言い伝えが残されています。
兵庫に斬り付けられた道灌が命からがら寺院の門前までたどり着いたのですが、門が閉まっていたため中に入れず道灌は息絶えてしまったといいます。
そのため、洞昌院ではそれ以降、山門に扉は付けないようになったと言われています。
その洞昌院に館跡から向かう途中には「七人塚」と呼ばれる墓石があります。
これは道灌が襲われた際に共に戦った道灌の家臣たちの墓と伝わっています。明治時代にこの辺り一帯を開墾した時に移されたようで、現在は1基だけ残されています。
また、道灌の墓は伊勢原市内にもう1つあります。
それは「大慈寺(だいじじ)」という道灌が再興した寺院で、道灌自身の菩提寺になっています。そこにある墓は「道灌の首塚」と呼ばれ、謀殺された道灌の首が埋められたと伝わっています。
大慈寺の近くには「丸山城」という室町時代から戦国時代にかけて築かれた城郭がありますが、最近ではこの丸山城が、道灌が謀殺された「糟屋館」ではないかと言われています。
道灌を討ち取った兵庫は、河越城に入った以降の経歴は、ほとんど分かっていません。
しかし、道灌謀殺後も扇谷上杉氏の重臣に曽我氏の名が見られることから、重臣として仕え続けたようですが、主君の没落と共に、歴史から姿を消していったようです。